多くの営業パーソンを悩ませる「ノルマ」。
毎年、毎月、毎週・・・会社によっては日割りの売上目標を課されることもあり、日々、心身をすり減らしている人も多いのではないだろうか。
ところでこの営業ノルマという考え方。そもそも本当に、会社経営に必要なのだろうか。
もちろん、目標を設定することでパフォーマンスが向上することもあり、また適切な目標とその達成はやりがいの源泉にもなりうるので、直ちに否定されるべきものではないだろう。
一定の売上がなければ会社は立ち行かず、その事実を可視化するという意味であれば、ノルマの設定もある意味で当然だ。
しかし、ビジネスパーソンが会社で設定される営業目標やノルマと言ったものは、多くの場合、非常にストレッチ度の高いものになっている。
つまり、容易に達成することができない数字ということが前提になっており、その根拠すら曖昧なことが多いために、それで良いのだろうかということだ。
なぜ曖昧といい切れるのか。
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目次
ノルマの親玉は会社の経営計画
その根拠は、この「ノルマの親玉」とも言うべき、会社の経営計画にある。
日本の上場企業では、実にその4割が、株主に約束している中期経営計画を達成できていないという事実をご存知だろうか。[1]
つまり多くの経営者自らが、「達成の可否が見通せない曖昧な数字」を株主に約束し、それを基にした数字を幹部以下の組織に求めているということである。
日本を代表するような上場企業ですら、このような「いい加減な経営者」が4割もいるのであれば、未上場企業であればさらに悲惨だろう。
このようにして、日本的で幼稚な会社経営者は大風呂敷を広げた目標を設定し、無茶なノルマで従業員を追い立てている。
なおかつ、経営計画が未達でも経営トップが責任を取ることは、ほとんどない。
なぜこのような「経営者文化」が日本には存在し、また許容されているのだろうか。
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実は非常識?日本的な「中期経営計画」
ところでこのような「経営者文化」は、日本独自のものなのだろうか。
主要各国との比較は本論では無いので別に譲るとして、米国との比較に限って言えば、実は大きく異なっている。
ストレッチ度の高い経営計画を経営者が投資家に約束し、なおかつその未達が半ば当たり前であるという文化は、米国には存在しない。
実はそれどころか、米国企業では、日本的な「中期経営計画」を発表する文化すら一般的ではない。
Topix core30社、つまり日本を代表する主要30社のうち、中期経営計画を発表している企業は25社に昇る。
その一方で米国では、NYダウ30社のうちこのような目標を発表しているのはわずか2社だ。
その背景に、日米のコーポレートガバナンスに関する考え方の違いはあるものの、そもそもとして米国では、マーケットから定められた厳密な発表様式があるわけではないということがあるだろう。[1]
日本の常識は、実は米国では相当な非常識ということである。
そしてこの日本の「経営者文化」に関する違和感は、経営者になった瞬間から、多くの人が感じ始めるはずだ。
例えば起業資金の融資についてである。
各地の自治体では、起業支援の制度を持っていることが多い。
一定の要件を満たすと信用保証協会への斡旋を受けられ、起業資金を優遇条件で借りやすくしてくれるというものだ。
また日本政策金融公庫でも同様に、起業性の資金を無担保・無保証で貸し付ける制度をもっている。
この際、いずれの場合でも相当精緻な経営計画の策定を求められ、提出することになるが、正直に言って一旦融資を受けた後に、その進捗を確認しに来られたことなど一度もなかった。
自分自身でも、融資を受けた後に改めて見ることなど、二度と無かった。
ハッキリ言って、融資を受けるために仕方なく、言われるままに作文しただけだ。
つまり、形ばかりの中期経営計画を作り、そのままゴミ箱行きということである。
結果論でもあるのだが、有意義な作業とはとても言えるものではなかった。
これは会社が成長し、例えば第三者割当増資を受けることになった場合にも続く。
多くのVC(ベンチャーキャピタル)を始めとした投資家は、出資に先立って必ず、中期経営計画の策定を発行体に対して求める。
その内容は
- 営業
- 売上
- 利益
- CF(キャッシュフロー)
- 設備投資
- 人員
の各種計画書に及び、もはやジグソーパズルである。
「もう少し営業計画を上積みして欲しい」
と注文を受けたら営業見込みを増やし、当然、売上や利益、CFも連動するので計算し直し、設備や人員の計画も華やかにする。
何のために作成するのか、発行体目線で言えば目的意識が希薄なので、何らかの経営上のツールとして機能することがない。
しかもこの場合、計画未達の場合には結構怒られてしまう、理不尽さである。
証券系や独立系の投資家の場合、場合によっては深夜まで詰められることもあった。
しかも、いくら詰めたところで実は、実質的な意味をもたせるのが難しい。なぜか。
日本では、経営トップはオーナーを兼ねていることがほとんどであり、また経営幹部以下の人事権を完全に握っているからだ。
そうなれば、いくら派手に経営計画を下回っても、株主は社長の解任などやりようがない。
そもそもとして、解任をすることが会社にとっても株主にとっても利益にならないのだから、本質的な意味で経営責任を問うことが不可能ということだ。
これは上場企業の場合でも同じで、日本的な企業では多くの場合、経営トップが役員の人事権を握っている。
役員もまた業務執行の責任者であることから、経営計画未達の責任を役員会が追求する構図にはなっていないので、大きな問題とならない。
裏を返せば、このようなコーポレートガバナンスの仕組みが、大風呂敷を広げた経営計画を発表することが許される文化の根底にあるということだ。
経営者は意気込みが評価され、結果については問題にならないのだから当然だろう。
そしてこれが下に降りて、無茶なノルマという数字になり、ビジネスパーソンを苦しめる元凶となる。
このような構図の中では、中期経営計画の策定など無意味であるだけでなく有害ですらある。
無意味なことはさっさと止めるか、あるいは機能するようにコーポレートガバナンスのあり方を変えるべきだ。
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「明るく諦める」発想で考えてみよう
臨済宗の僧侶で、芥川賞を受賞した作家としても知られる玄侑宗久氏は、
「計画通りに物事を進めようとする事が、ビジネスパーソンの命取りになる」
と、その著書に記している。
すなわち、農家の人は朝起きて雨が降っていれば、畑仕事を家仕事に変更する。
台風が接近すれば収穫などを前倒しして、嵐に備える。
自然相手の仕事なので、想定外を想定内に取り込み、常に「明るく諦める」すべを知っている。
しかしビジネスパーソンは、環境が変化しても、目標の前提条件が変わろうとも、当初の計画を達成しようとする。
そんな事をしたら、組織も人もおかしくなって当然ではないかと、喝破されている。
本当に、聞くべき言葉だ。
前提条件が変わっているのに経営計画にこだわるのは、台風が接近していても予定通りの収穫に固執するようなものであり、何の利益にも繋がらない。
まして、台風の中で収穫作業を命じられるような営業パーソンからすれば、たまったものではないだろう。
心身に傷を負い、経営者にも会社にも見切りをつけて当然ではないか。
そしてこの「明るく諦める」という言葉は決して、無策に目標を放棄するということではない。
状況に併せて臨機応変に、自分と組織を変えていこうという教えであると理解している。
言い換えれば、状況の中で最適な結果を目指せば良い、ということだ。
もし経営トップとして、あるいは経営幹部として経営計画の策定とその執行に無意味なこだわりを持った事があるのであれば、ぜひ一度、考えて欲しい。
その中期経営計画は何のためにあるのか。
そのノルマの要求は、正しいのか。
ステークホルダー全員の利益のために、「明るく諦める」ことが正解であることも、きっとあるはずだ。
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[1]大和総研「なぜ米国企業は中計を発表しないのか」https://www.dir.co.jp/report/consulting/vision/20151022_010244.pdf