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【伝説】本田宗一郎はどんな人?世界のHONDA創業時の逸話や生い立ちを解説!

  • 「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」
  • 「失敗と成功は裏腹になっている。みんな失敗を恐れるから成功のチャンスも少ない」
  • 「私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある」

上記の言葉は、どれも本田宗一郎の言葉です。

本田宗一郎は言わずと知れた本田技研工業の創業者で、失敗を恐れず、何度も挑戦し、何度も失敗し続けた上で成功を掴み取った人物です。

日本においても世界においても、本田宗一郎はユニークな経営者と言えるでしょう。

特に、本田宗一郎は日本人に愛される経営者でもあります。本記事では、本田宗一郎の生涯や人物像がわかる逸話・エピソードなどを紹介していきます。

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本田宗一郎の生い立ち

本田宗一郎は明治39年(1906年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(浜松市天竜区)で鍛冶屋を営んでいた父・本田儀平と母・みかの子として誕生しました。

父親は熟練した鍛冶職人であり、母親も機織りの優れた技術を持っていました。裕福とは言えない家庭ではありましたが、のびのびと育てられたようです。

一方で、両親によるしつけはしっかりと行われており、後の本田宗一郎の性格に反映されることとなります。

基本的に自由奔放な性格をしている本田宗一郎ですが、ただ無責任に行動するのではなく人に迷惑をかけることを嫌い、約束の時間は絶対に守る几帳面さも持ち合わせていました。こうした側面は父である儀平に教えられたことだそうです。

幼少期から機械いじりに夢中

そんな家庭に育った本田宗一郎は、誰に習うでもなく機械いじりに夢中になっていきました。

着ていた着物の袖が鼻水だらけになってもお構いなしだったのです。冬には鼻水が凍るため、母親はおかしくて怒るに怒れなかったといいます。

そして、小学生の時には、自宅から20キロも離れた浜松歩兵連隊に飛行機がやってきました。本田宗一郎は飛行機を見にいこうとしますが、入場料に10銭かかり、父親もお金を出してくれません。

しかし、絶対に飛行機を見たい本田宗一郎は、人に見つからないように松の木に登ったのです。これほど機械に執着し、そして目的を達成するためなら手段は選ばないという性格は、幼少期から変わっていませんでした。

いたずら好きの子どもが自動車好きに

幼い頃の本田宗一郎は、職員室の金魚に黄色や青のエナメルを塗ったり、隣人が営む石屋の石地蔵の鼻を金槌で彫り直そうとしたりするなど、いたずらばかりしていました。

しかし、そんないたずら好きの子どもが、自動車好きの子どもになる出来事が起きました。それは、本田宗一郎が生活する村に初めて自動車がやってきて、村中が騒然となったときのことです。

本田宗一郎は目の前を走る黒く輝くセダンを見て「これが、自動車か」と、自動車の後ろを掴みながら一緒に走りました。

ガソリンや排気の臭い、エンジンの音を体で感じ、空を飛ぶような高揚感を感じてゾクゾクしたといいます。そして、その瞬間から宗一郎少年の夢は「こんな車をつくってみたい」というものになったのです。

15歳で自動車修理会社「アート商会」に入社

本田宗一郎は、高等小学校の卒業後は進学するつもりは一切ありませんでした。というより、したくてもできないほど成績が悪かったのです。そこで大正11年(1922年)の春には、15歳で東京・本郷の自動車修理会社「アート商会」に丁稚奉公に出ます。

アート商会は自動車専門誌に広告を出すほどの、東京においてトップクラスの自動車修理会社だったため、丁稚奉公をしたいという人は山ほどいたはずです。そんな中で本田宗一郎は運良く選ばれました。

小学校を卒業してすぐに会社で働くことになった本田宗一郎ですが、これは現代の感覚でいう就職とは全く異なるものです。当時の丁稚奉公は、寝床と食事と数えるほどの小遣いをもらえるだけでした。

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アート商会で腕を磨く

アート商会では、仕事といえば掃除や子守りばかりさせられていましたが、本田宗一郎は「自動車を近くで見られるだけで幸せなんだ」と自身を鼓舞して雑用をこなしていきました。

そしてその合間に師匠の仕事を目で盗もうと食いついて見つめていたのです。

アート商会で丁稚奉公を始めてから半年ほど経った時、ついにスパナを握らせてもらえるようになりました。

アート商会の主人・榊原郁三が「今日は忙しいからお前も手伝え!」と、本田宗一郎を呼び出したのです。喜んで作業着に着替えた本田宗一郎はすぐさま作業に取り掛かります。

その時から持ち前の器用さを武器にメキメキと腕をあげていきました。

本田宗一郎が持つ才能を見抜いた榊原郁三は、次第に目をかけるようになります。

関東大震災で初めて車を運転を経験

大正12年(1923年)9月、関東大震災が起こります。

あちこちで火災が発生し、アート商会にも火の手が襲ってきました。顧客の車に何かあれば大変なことになるため、自動車を運転できる人が一台ずつ安全な場所に移動させる必要がありました。

ここが本田宗一郎らしいのですが、大震災が起こっているにも関わらず、「やった」と思ったといいます。本田宗一郎は自動車を生まれて初めて運転することに感動と興奮を覚え、地震など気にならなかったと語っています。

榊原郁三から学ぶ

本田宗一郎はアート商会の主人の榊原郁三からあらゆることを学んでいます。

修理の技術はもちろんのこと、取引先とのコミュニケーションの取り方、そして技術者としての矜持までを学んだといいます。榊原郁三は熟練のエンジニアであり、優れた経営者でもあったのです。

本田宗一郎は「尊敬する人物は誰か?」と聞かれると、決まって榊原郁三と答えています。

アート商会には大量生産車だけでなく少量生産の高級車まで世界中のさまざまな自動車が持ち込まれていました。本田宗一郎にとって、アート商会は理想的な学校だったのです。

そして昭和3年(1928年)、本田宗一郎はアート商会からのれん分けの形で浜松市に「アート商会浜松支店」を開業しました。アート商会ののれん分けを許されたのは本田宗一郎だけだったのです。

総理大臣並みの収入を稼ぐ

本田宗一郎はどんな自動車でも修理できたため、その評判はすぐに広まり、当時の総理大臣と同じくらいの収入を稼ぐようになりました。

しかしお金に対する興味はなく、あくまでもモノづくりがしたかったのです。そしてついに「どれだけ儲かっても修理は修理だ。自分はモノづくりがしたいんだ」と、出資者たちの反対を押し切ってピストンリングの製造を始めます。

本田宗一郎は別会社の東海精機重工業を設立して研究をし続け、3年かけて実用化しました。

そこでトヨタから3万本の注文が入りますが、サンプルとして送った50本のうち47本が不良品として返品され、合格したのはたった3本だけでした。

しかし、これにめげずその後も研究を続けた結果、28件もの特許を取得し、2年の歳月をかけて安定した製品づくりを実現させたのです。

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「本田技術研究所」の設立

ピストンリング事業が軌道に乗り始めた矢先、太平洋戦争が勃発します。

戦争が終わっても、街も経済も壊滅状態でピストンリングの需要などありません。そして、本田宗一郎は東海精機重工業の持ち株をトヨタ自動車に譲渡してしまいます。

その後は闇酒のどぶろくを作って飲む生活を送るものの、この時期は本田宗一郎にとって自分が何をするべきか、何をしようかといったことを考えるための重要な期間となりました。

そして、昭和21年(1946年)に本田宗一郎が行動を起こします。「本田技術研究所」の設立です。

大ヒット商品「バタバタ」の開発

本田宗一郎はたまたま旧陸軍の六号無線機発動用エンジンを見た際に、あることを思いつきます。

「自転車にこのエンジンを付けたら良いのではないか?」

そこから昼夜を問わず考え続けた本田宗一郎はさまざまな試行錯誤の末、ようやく補助エンジン付き自転車の開発に成功します。着想を得てからわずか60日ほどのスピード仕事でした。

後に大ヒットを記録することになるこの自転車は、走る際にバタバタと鳴ることから「バタバタ」と呼ばれるようになりました。

そして、昭和23年(1948年)、後に「世界のHONDA」と呼ばれるまでに成長することになる企業、「本田技研工業」を設立したのです。

藤沢武夫との出会い

本田技研工業が「世界のHONDA」と呼ばれるほど成長したのは、本田宗一郎だけの力ではありません。本田宗一郎は藤沢武夫という人物と出会うことで、本田技研工業を大きく成長させることができたのです。

2人が出会ったのは昭和24年(1949年)のことでした。お互いの共通の知り合いを通じて対面した時、両者はすぐに意気投合しました。

その理由はお互いに性格も専門分野もまるで異なっていたことにあり、「自分が持っていないものを向こうが持っていた」と語っています。

技術の本田宗一郎、経営の藤沢武夫

本田宗一郎は、モノづくりに関しては右に出る者はいないほど優れた腕を持っていましたが、こと経営や営業のこととなるとからっきしできませんでした。

実際、本田宗一郎は「俺はどんな数字でも最後にミリが付いたり、パーセントが付いていれば覚えられるが、最後に円が付くと全然ダメ」とユーモラスに語っています。

そんな本田宗一郎を支えたのが藤沢武夫です。

藤沢武夫は技術に関しては門外漢でしたが、経営や営業に関する才能は人一倍ありました。

専門分野が異なる2人が協力したことで「技術の本田宗一郎」と「経営の藤沢武夫」という最強のコンビとなり、HONDAを引っ張っていったのです。

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本田宗一郎の人物像がわかる逸話・エピソード

ここからは本田宗一郎の人物像がわかる下記の逸話やエピソードを紹介していきます。

  • 120%の製品づくりを目指した
  • 潔い引退
  • 引退後の全国行脚

120%の製品づくりを目指した

1953年3月号のホンダ月報に「120%の良品」というテーマの文章が掲載されています。

「100%を目指していては、人間のすることだから1%くらいのミスをする。だからミスをなくすためには120%を目指さなければならないんだ」という内容のものでした。

そして実際に従業員に向けて、日常的に「120%を目指せ」と何度も言っていたのです。

また、当時の従業員がうっかりミスをしたことが本田宗一郎に見つかった際に、「自分たちの給料はお客さんからもらったお金だ。そのお客さんを殺す気か!」と激怒したといいます。

その時の本田宗一郎は、口先だけではなく心の底から叱っていたのです。

潔い引退

ある時、HONDA社内でエンジンを空冷にするか、水冷にするかという対立が起こりました。

若手社員は公害規制をクリアするために水冷にするべきだと主張しましたが、本田宗一郎は「砂漠でエンストしたら水なんてない!空冷だ」と主張しました。

こうして空冷となりましたが、後に実験をしてみると水冷のほうがパフォーマンスが良いことがわかり、HONDAは水冷に切り替えたのです。

この件がきっかけとなり、本田宗一郎は「自分はもう技術がわからないのかもしれない」と感じ、潔く社長を退いたのです。

引退後の全国行脚

65歳で引退した本田宗一郎は、仕事をする社員一人ひとりにお礼を言うため日本全国の工場や販売店に足を運びます。このとき、1日に400kmも移動することもあったほどです。

そして、この全国行脚の際にある従業員と握手をしようとしたところ、その従業員が自身の手が油まみれになっていることに気づいて手を引っ込めました。

そのとき、本田宗一郎は「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ」と言って、しっかりと握手して手についた油の臭いを嗅いだのです。

まとめ

ここまで、本田宗一郎の半生と人物像がわかる逸話やエピソードを見てきました。

本田宗一郎は、世界的な自動車メーカーになるまでに成長した本田技研工業の創業者ですが、彼は良い大学はおろか高校も中学校も卒業しておらず、最終学歴はなんと小卒です。

しかも、長く社長の座に居座るのではなく、自分の知識が追いつかなくなったと察したら潔く身を引いています。

このような本田宗一郎だからこそ人々に愛され、世界に愛される自動車メーカーをつくることができたのではないでしょうか。彼のような優れた経営者が、今後も日本から生まれてくることを期待するばかりです。

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