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大江広元(おおえのひろもと)とは?死因や生い立ち、初代政所別当について紹介!【鎌倉殿の13人】

2022年放送予定のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には源頼朝をはじめ、北条義時や梶原景時などのメンバーが登場しますが、その中で今回は栗原英雄さんが演じる「大江広元」に焦点を当てていきます。

大江広元は初代政所別当として活躍し、源頼朝から大きな信頼を得ていました。鎌倉幕府に人生を捧げたといっても過言ではないほどの働きをした大江広元はどのような人物だったのでしょうか?

本記事では、そんな大江広元の生涯や逸話、行ってきたこと、どのような人物だったのかを解説していきます。

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大江広元(おおえのひろもと)の生涯

鎌倉幕府は源頼朝が開きましたが、その創立に大きく貢献した人物が「大江広元」です。大江広元は初代「政所別当(まんどころべっとう)」として活躍しましたが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?

ちなみに、「政所」とは政治をとり行う所であり、鎌倉幕府の統治機構のひとつです。そして「別当」とは最高責任者のようなものであるため、「政所別当」とは「政治機関のトップ」ということになります。

大江広元の出生

鎌倉幕府にまつわる歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」によると、大江広元は1148年(久安4年)頃に、京都の公家の家系に生まれます。

大江氏は平安時代から続く学者の家系であり、大江匡房(おおえのまさふや)や、平安朝の歌人の和泉式部(いずみしきぶ)なども同氏の出身です。

大江広元の親は明確になっておらず、一説では大江維光(おおえのこれみつ)の子として京都で生まれ、母親の再婚相手である明経博士の中原広季(なかはらのひろすえ)によって育てられたとされています。

また、後白河天皇の近臣であった藤原光能(ふじわらのみつよし)の子どもとする説もあります。

なぜ「大江」姓にしたのか

大江広元が大江姓になったのは晩年の1216年(建保4年)のことです。

「吾妻鏡」では、養父である中原広季に育ててもらった恩義はありつつも、廃れていく大江家の将来を考えて、実の父親である大江維光の姓を継いだようです。

それまでは、育ての親である中原広季の姓をとって「中原広元」と名乗っていました。

優秀な学生だった大江広元

大江広元の育ての親・中原広季は下級公家でありながらも、明法博士(みょうぼうのはかせ)であったため、朝廷の官吏を目指す学校の教師をしていたのです。

「明法博士」とは、大学寮の明経の課程の教官の最上席のことです。また、「官吏(かんり)」とは国家公務員や役人を指しています。

明法博士に育てられた大江広元も、明経道(律令制の大学寮での四道の一。 論語・孝経などの経書を学ぶ学科)を志していたため、優秀な学生でした。

実際に大江広元は、学生のなかから優秀な成績を収めた学生にのみ与えられる特待生の身分であり、卒業後に任官が保証される「明経得業生」となり、下級貴族として朝廷に仕えていたのです。

そして、儀式の取り仕切ったり、天皇への奏文(天皇に意見を申し上げる文章)を作る「外記(げき)」を務めました。

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源頼朝により鎌倉幕府に仕える大江広元

朝廷で外記を担う官僚として活躍していた大江広元ですが、広元の兄である中原親能(なかはらのちかよし)は以前から源頼朝に仕えており、その縁もあって大江広元は頼朝に招かれ、1184年(寿永3年/元暦元年)には鎌倉幕府に出仕します。

つまり、1183年(寿永2年/養和3年)に平家が倒されたことによって、兄に続いて源頼朝に仕えることになったのです。

政所別当に就任

そして、大江広元は朝廷での実務経験で身につけた分筆の才能を活かして、幕府公文所別当に就任しました。公文所は文書の官吏や訴訟、財務を取り扱う行政機関です。

別当は上記でも解説したように、その機関の長官を意味するため広元は公文所のトップとなりました。

1191年(建久2年)(1185年(文治元年)の説もあり)に政所が開かれ、公文所は政所にまとめられたため、大江広元は初代政所別当となります。さらに検非違使、明法博士、左衛門大尉にも就任するなど、当時では異例の人事でした。

朝廷との交渉役になる

同じ時期に鎌倉幕府は、軍事や警察の役割を担う「守護」と、諸国における土地の管理や年貢の徴収、治安維持を担う機関である「地頭」の設置を行います。

源頼朝が目指す武家社会を実現させるためには、この守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、幕府が人事権を持つことが必要でした。実は、この制度の策定には大江広元が大きく貢献しているとされています。

もともと朝廷で仕事をしていたため朝廷とのパイプもあり、交渉の際にも大きく役立ったのです。このように朝廷とのパイプを使えるのは、大江広元がそれほど優秀だったからといえるでしょう。

こうして大江広元は源頼朝に次ぐ鎌倉幕府の頭脳として、高い評価を得ていきました。

御家人との取り次ぎ役となる

大江広元は御家人からの意見を源頼朝に伝える取り次ぎ役も担ってもいました。

例えば、1185年(元暦2年/文治元年)に、源頼朝は弟の義経との仲が悪くなった際に、義経が鎌倉入りを認められなかったときの話があります。このとき、義経は「兄に仕える気持ちが変わることはない」という嘆願書を大江広元に送っていたのです。

義経が腰越にいたときのことだったため、この書状は「腰越状」と呼ばれています。

これはつまり、大江広元は源頼朝に対して直に意見を言うことができる、頼朝と最も距離が近い側近として認知されていたことを示しています。

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源頼朝没後は北条政子、北条義時に協力した大江広元

1199年(正治元年)に源頼朝が亡くなると、2代将軍として源頼家が就任しますが、大江広元と北条時政たちはまだ18歳と若い頼家をサポートするために「13人の合議制」を発足させました。

源頼家は父・頼朝のような優れた政治スキルを持ち合わせていなかったため、独裁的な政治を行うようになります。これを制御するために13人の合議制が発足されたのです。

13人の合議制のメンバーには北条時政や北条義時をはじめ梶原景時、和田義盛、そして大江広元など有力御家人たちで構成されていました。なかでも大江広元は北条親子に次ぐNo.3の座についていたのです。

有力御家人を滅亡させる北条氏

このとき、執権として鎌倉幕府のNo.1とNo.2の座にいた北条時政と北条義時ですが、北条氏はさらに自らの地位を固めるために、力を持っていた御家人たちを次々と滅亡させていきました。

これにより北条氏は勢力を広げていき、大江広元と並んで政所別当に就任します。さらに、執権としても幕府の実権を掌握していたため、大江広元は北条政子と北条義時に協力して幕政に関与するようになります。

例えば、1203年(建仁3年)大江広元は、北条時政と共謀して頼家を失脚させて伊豆の修善寺に追放しました。

このとき、トップが入れ替わっても内部で混乱を起こさずに統治し続け、北条氏の覇権を守ることができたのは、大江広元が北条義時をサポートしていたおかげだとされています。

和田合戦において北条義時の味方をする

1213年(建暦3年)に、初代侍所別当の御家人・和田義盛が反乱を起こします。しかし、実際は北条義時にとって力をもつ和田義盛の存在が邪魔だったため、義時が義盛を挑発してけしかけたことが原因でした。

北条義時に挑発されて激怒した和田義盛は北条義時を討伐しようと挙兵しますが、大江広元はこのときも北条義時の味方をします。この和田合戦の末に殺害された和田義盛は侍所別当だったため、既に政所別当だった北条義時は侍所別当を兼務します。

これにより、北条義時の権力はさらに強力なものになりました。

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「承久の乱」で活躍した大江広元

その後、政所別当を辞職して隠居生活をしていた大江広元ですが、1216年(建保4年)に陸奥守に任官され、このときまで名乗っていた中原姓を大江姓に改名します。

上記でも解説しましたが、大江姓に変えた理由は、廃れゆく大江家の将来を考えてのことでした。

また、鎌倉幕府は武家政権であったため、戦で功績を挙げて地位や土地を贈られた御家人が多く存在します。しかし、これまで大江広元は戦とは縁のない文官として活躍し続けてきました。しかし、そんな大江広元ですが、一度だけ戦で活躍します。

それが、1221年(承久3年)に勃発した「承久の乱」です。

後鳥羽上皇による「承久の乱」勃発

当時は鎌倉幕府が情勢を意のままに動かしていたため、旧来の院生を取り戻すために後鳥羽上皇が兵を挙げて「承久の乱」が起こります。

この時、大江広元の嫡男だった大江親広は後鳥羽上皇に呼び出され官軍側となり、大江広元と大江親広は親子で戦うことになるのです。

大江広元は北条政子とともに徹底抗戦を主張し、官軍相手に戦をすることに戸惑っていた御家人たちを説得しました。これにより勢いを取り戻した幕府軍は官軍を打ち負かし、大江広元はこの勝利に大いに貢献したとされています。

こうして大江広元は源頼朝の没後も、執権として最高権力者となった北条義時や北条政子のもとで、最後まで鎌倉幕府に尽くしていきました。

大江広元の死

生涯を通じて鎌倉幕府に尽くして幕府の発展を支えた大江広元ですが、1225年(元仁2年/嘉禄元年)に激しい下痢を伴う病気を患い、亡くなってしまいます。

墓所は源頼朝の墓の近くにありますが、現在の神奈川県鎌倉市にある明王院(みょうおういん)の裏山にある、五重塔が大江広元の墓所と考えられています。

泣いたことがない?大江広元の逸話とは

ここまで、鎌倉幕府に最後まで尽くし、幕府の屋台骨を築いた大江広元の生涯を見てきましたが、その人物像はどのようなものだったのでしょうか? ここでは大江広元にまつわる下記の逸話を紹介していきます。

  • 鎌倉幕府の序列は上から2番目だった?
  • 大江広元は泣いたことがない?
  • 情熱的な一面も持ち合わせている

それでは1つずつ解説していきます。

鎌倉幕府の序列は上から2番目だった?

上記で解説したように、13人の合議制において大江広元は北条時政、北条義時に次ぐNo.3として数えられていました。

しかし、実際は鎌倉幕府においてはNo.2の序列にあったとされています。実際、源頼朝がまだ生きていた頃に大江広元だけが早くから正五位(しょうごい)を許されていたのです。「正五位」とは、日本の位階及び神階における位のひとつで、従四位の下、従五位の上に位します。

さらに、源頼朝が亡くなった後に最高権力者となった北条義時をも上回る地位にあり、将軍に次ぐ存在として扱われていたのです。

大江広元は泣いたことがない?

大江広元にまつわる逸話で有名なものが「吾妻鏡」に記されています。

「吾妻鏡」によると、大江広元は「私は成人してから、一度も涙を流したことがない」と語ったとされています。

本当に泣いたことがないかどうかはわかりませんが、この逸話が示しているのは大江広元がそれほどまでに冷静沈着な男であったということです。

情熱的な一面も持ち合わせている

しかし、その一方で情熱的な側面も持ち合わせていることがわかる逸話もあります。

それは、鎌倉市街地で戦が起こったときのことです。ほかの御家人は第3代将軍であった源実朝を逃がしつつも、燃え盛る鎌倉市街地を目にして呆然と立ち尽くしていました。

しかし、大江広元は幕政にとって貴重な文書が燃えて無くなることを避けるために、街のなかに入っていこうとしたのです。

これを受けて周囲の人間が大江広元を止めたことによりなんとか無事にすみましたが、ここに大江広元の強い責任感が感じられるのではないでしょうか。

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滅亡させられた人物と大江広元

大江広元と同じ時代を生きた下記の有名な人物との関わりを見ていきましょう。

  • 梶原景時
  • 和田義盛

それでは1つずつ解説していきます。

梶原景時

梶原景時も大江広元と同様に13人の合議制のメンバーの1人でしたが、梶原景時は主君に忠実であり過ぎたために、他の御家人たちから忌み嫌われていました。

例えば、戦において戦況を源頼朝に伝える際、他の御家人は大雑把にしか伝えていなかったところ、梶原景時は事細かに伝えていました。頼朝はそのことをとても喜んだとされています。

しかし、これと同時に御家人がどのような失態を犯したのかも伝えていたため、ほかの御家人には疎まれていたのです。このようなこともあって、源頼朝の死後に梶原景時を弾劾する連判状が、66人の御家人によって作成・提出されてしまいました。

提出を受けた大江広元は平和的に解決をしたかったため第2代将軍源頼家にはしばらく渡さないようにしていたのですが、和田義盛に問い詰められたため頼家に申し上げ、ついに梶原景時は追放され討たれていまいます。

和田義盛

そして、先程も登場した和田義盛も13人の合議制のメンバーであり、初代侍所別当でもありました。

しかし、北条義時は勢力を拡大するために目障りな和田義盛を排除しようと企み、和田義盛を挑発します。この挑発を受けて挙兵した和田義盛ですが、大江広元は義時の側について戦いました。

まとめ

ここまで大江広元の生涯や人物像についてみてきました。

優秀だった大江広元は政所別当として活躍し、さまざまな功績を残します。自身は権力の座には座らず、源頼朝や北条義時といった時の権力者に協力して、上手に世渡りをしていきました。

ただ、大江広元は頭脳だけで世渡りをしてきたわけではなく、承久の乱では徹底抗戦を主張して勝利に大きく貢献しています。

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