突然ですが、このような疑問を感じてはいませんか?
- 「藤沢武夫ってどんな人? 何をしたの?」
- 「本田宗一郎と藤沢武夫はどんな関係だったの?」
- 「藤沢武夫の経営手腕は何がすごかったの?」
あなたは「藤沢武夫(ふじさわたけお)」という人物をご存知でしょうか?
本田技研工業株式会社の創業者として有名なのは本田宗一郎ですが、実は本田宗一郎のほかにHONDAを支えたもうひとりの男がいました。それが「理想のNo.2」とも言われる藤沢武夫です。
しかし、名前が知られている本田宗一郎に比べて藤沢武夫はどのような人物だったのか、またどのように本田技研工業株式会社に貢献したのかはあまり知られていません。
そこで本記事では、藤沢武夫に関する基本的な知識から、どのような人物だったのか、本田宗一郎とはどのような関係だったのかなどを解説していきます。
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藤沢武夫と本田宗一郎との出会い
昭和43年(1910年)11月、東京市小石川区(現在の東京都文京区)に、父の秀四郎と母のゆきの子として生まれたのが藤沢武夫です。
父の秀四郎は銀行員など複数の仕事を転々としたあとに、「実映写」という映画館のスライド広告を作る宣伝会社の社長をしていました。
父親が会社の経営をしていたこともあり、子供時代は比較的豊かな暮らしをしていましたが、藤沢武夫が中学一年生のときに関東大震災によってその生活は一転。父親が経営していた会社は焼け落ち、借金だけが残ったのです。
藤沢武夫は教師を目指していましたが、東京師範の受験に落ちてしまったため、宛名書きをする筆耕屋(ひっこうや)を仕事にしました。
口下手だった藤沢武夫は勉強のためにとにかく文学書を読み漁りますが、昭和5年(1930年)に徴兵されます。
そして、軍隊で1年間過ごしてからはまた筆耕屋として生計をたてるようになりました。
鉄鋼材のセールスマンとして才能を開花させる
その後、昭和9年(1934年)に23歳になった藤沢武夫は、鉄鋼材の販売店「三ツ輪商会」で働くようになります。ここでは小規模の工場に鉄鋼材を斡旋するセールスマンとして働いていました。
もともと人付き合いが苦手だった藤沢武夫がこの仕事に就いた理由としては、「直感で、おれの行くべき道と思った」としか語られていないため、細かな理由は不明です。
誠心誠意な態度によって信頼を得る
しかし、その直感は見事にあたりました。
なんと続々と得意先を開拓し、売上成績で一番になったのです。その秘密は、藤沢武夫の正直で誠意ある態度にありました。彼は納期が遅れる際には、その場しのぎの言い訳をするようなことはせず、素直に理由を伝えて謝罪していました。
さらに謝罪だけではなく、解決策を考えて必ずそれを守るのも彼の流儀だったのです。このような態度により信用を得て、成績を伸ばしていきました。
日本機工研究所の設立
こうして優秀な働き手として活躍していた藤沢武夫は、三ツ輪商会の主人が軍隊に徴兵された際には、代わりに経営を任せられるほどの評価を得ていました。
昭和14年(1939年)、独立を考えた藤沢武夫は、日本機工研究所を設立。そして昭和20年、板橋にあった工場を空襲から守るために福島に疎開しますが、工場を運んだその日に戦争が終わりました。
藤沢武夫は先を読んで、戦後の日本では建築用木材の需要が高まると考えて、福島では製材業を始めることになります。
そして、昭和24年(1939年)、ついに藤沢武夫は共通の友人を通して「浜松の発明王」として知られていた本田宗一郎と出会うのです。
お互いに意気投合する2人
藤沢武夫と本田宗一郎が初めて出会ったのは、本田技研工業株式会社を創立したおよそ1年後で、「ドリームD型」というバイクを発売したすぐ後でした。
そして、2人は対面してすぐに意気投合。どちらもお互いに持っていないものを持っていると感じたのです。実際、藤沢武夫と本田宗一郎は、性格から仕事における得意な領域についてもまるで違っていました。
当時2人が出会ったのは、藤沢武夫が38歳、本田宗一郎が42歳の頃です。今で言えばまだまだ若い年代ですが、当時の2人はすでに十分とも言える人生経験をしてきています。
藤沢武夫は売る人として、本田宗一郎はつくる人として、どちらもお互いに不足しているものを持っており、お互いがお互いを補い合うようにタッグを組むに至ったのです。
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藤沢武夫は本田宗一郎と出会った同年に本田技研工業の常務取締役に就任し、「藤沢は経営、本田は技術開発」という二人三脚をスタートさせます。
入社した当初、HONDAは資金繰りが難しくなっていたため、第一次増資で4分の1を藤沢武夫が出資しています。
不況により倒産の危機が訪れる
昭和25年(1950年)には東京に工場・営業所を開き、1953年には浜松にあった本社を東京に移し、さらには静岡・浜松工場、埼玉・大和工場を開設します。
しかし、不況の煽りを受けて社員の間では「倒産するのではないか」という話が広まるほど危うい状況でした。
しかし、朝鮮戦争によって「朝鮮特需」が生じ、このおかげでHONDAもなんとか経営を立て直すことができました。
これにより、藤沢武夫が専務になった1年後の昭和28年(1953年)には、二輪車生産台数で日本一を成し遂げたのです。その後、副社長に就任したのは昭和39年(1964年)のことでした。
独自の販売網を模索する
しかし、二輪生産台数日本一を成し遂げられたのは朝鮮特需のおかげだけではありません。藤沢武夫による巧妙な戦略が多大な貢献をしているのです。
その1つに、昭和27年(1952年)のF型カブ(原付き用エンジン)を売り出す際の「DM戦略」があります。そのころのHONDAはものづくりの実力は確かなものでしたが、つくったものを売る力に欠けていました。
先発メーカーの大半は全国各地にいる資産家と協力して、販売網の基礎を固めていた一方で、当時のHONDAは販売網が弱く、夜逃げや詐欺のような手口の被害に遭っており、それに懲りて代理店を通しての販売を委託していました。
このように他メーカーに対し出遅れていたHONDAですが、将来を考えていた藤沢武夫は独自の販売網を持つことの重要性をしっかりと認識していました。
藤沢武夫によって売り出されたF型カブ
そこで、藤沢武夫は逆転の発想を実現させます。
それは、全国に存在する5万5,000軒の自転車販売店を活用することです。そこで、エンジンを扱ったことがない自転車販売店にバイクを売ってもらうために、藤沢武夫は全国の自転車販売店に手書きの手紙を送り続けました。
ここで、藤沢武夫がしていた筆耕屋としての経験が活きることになります。
5万軒以上ある自動車販売店に「戦後のお客はエンジン付きのものを求めている。そのエンジンをHONDAがつくりました」という旨のDMを送り、およそ3万通の返事がくると藤沢武夫はさらに第2弾の手紙を送りました。
これにより、一気に日本各地に1万3,000軒もの販売網を構築することに成功し、後々3万軒にも増えていきました。
2人の引退
その後、HONDAは昭和32年(1957年)には東証一部上場を果たし、その翌年には60年間で1億台売れることになる超ロングセラー「スーパーカブ」を売り出します。
こうして藤沢武夫はものづくりに特化したHONDAを、ものづくりと販売に特化した企業へと進化させ、「世界のHONDA」となっていきました。
そして、日本の高度経済成長が終りを迎える頃の昭和48年(1973年)、社長の本田宗一郎と副社長の藤沢武夫はともに退任し、取締役最高顧問としてその後のHONDAを支えていきます。
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本田宗一郎は藤沢武夫にHONDAを経営するすべての権利を託していました
藤沢武夫の経営は斬新でありつつ合理的なものであり、下記のような功績を残しています。
- 販売力に欠けていた時代に独自の販売網を構築するために、DM(ダイレクトメール)を送り、短期間で販売網の開拓に成功した。
- 販売店だけに任せず、社用の軽飛行機を購入して全国に飛ばし、広告チラシを空からばらまいた。
- サラリーマンでも簡単に購入できるように、ローンシステムを実現させた。
- 「発明王」本田宗一郎の能力への依存から脱却するために、研究開発部門を独立させて本田技研研究所を発足させた。
このように、藤沢武夫は数々の功績を残していますが、このような成功の裏には、さまざまなエピソードが残っています。
スーパーカブの誕生
「世界的ロングセラー」や「奇跡の乗り物」と称されるスーパーカブが誕生した裏には、藤沢武夫の貢献があります。
もともとスーパーカブの開発が始まったのは、藤沢武夫が本田宗一郎に「奥さんが亭主に買ってもいいと許可するような二輪車をつくってくれ」と頼んだことがその始まりでした。
こうしてスーパーカブが開発されたのですが、「どのようなものを開発するか?」だけではなく「どのように販売するか?」までもカバーするのが藤沢武夫氏の凄さです。
販売網を構築したときと同じように、まずはDMを全国に送り、さらに「ソバも元気だ、おっかさん」という名キャッチコピーをつけました。
こうして人々の心に染み入る宣伝広告を打ち出した結果、長きにわたるロングセラーとなったのです。
アジアよりまずアメリカから制覇する
営業課長の「海外で勝負するならまずは東アジアからだ」という意見に対してあなたはどう考えるでしょうか? 「確かに近いところから勝負するべきかも」と思うかもしれませんが、藤沢武夫はそうは考えませんでした。
この意見に対して、藤沢武夫は「いや、アメリカだ。資本主義・世界経済の中心のアメリカを制覇すれば自ずと世界に広がる」と考え、アメリカで勝負をします。その結果、スーパーカブはまず大学生から人気を集め、誕生日プレゼントとして選ばれるまでの人気の乗り物になったのです。
藤沢武夫が何より大事にしていた「信頼」
上記で見てきたように、藤沢武夫は斬新なマーケティングや宣伝広告を展開してきた人物ですが、彼が何よりも大事にしていたものは「信頼」でした。
藤沢武夫の書籍や発言のなかから読み取れるのは、アカウンタビリティ(説明責任)やディスクロージャー(情報公開)への意識の高さです。
今でこそこの2つは重要視されていますが、はるか昔から藤沢武夫は、ステークホルダーに対して正直に経営状況を伝えることが信頼感につながり、ひいては経営に良い影響をもたらすと信じていたのです。
藤沢武夫がこの考え方を身につけたのは、三ツ輪商会にて丁稚奉公をしていたときだったそうです。
とにかく「信頼第一」
当時の三ツ輪商会では、納期に遅れが生じると、納期の目処が立っていないにも関わらず三ツ輪商会の主人は「すぐに納品します」とその場しのぎの言い訳をしながら、納期を引き伸ばしていました。
もちろん、このような態度は取引先にとっても迷惑でしかなく、三ツ輪商会にとっても信用を失う危険性があります。
これをみた藤沢武夫は、主人に対して「自分が取引先に現状を正直に話す」と自ら伝えて、憎まれ役を買って出たのです。
このとき、藤沢武夫は「今更言い訳しても仕方がない。言い訳をすればさらにウソをつくことになる。だからこそ素直に現状を伝えて、素直に謝るのが最も良い」と腹をくくりました。
罵倒されるも最後には信頼される
こうして取引先に向かい、ありのままに伝えて謝罪したところ、藤沢武夫は罵倒されてしまいます。
しかし、それでも素直に現状を伝えて理解を求める姿勢に取引先も徐々に態度を和らげていき、最終的には穏やかに談笑するようになりました。
この成功体験が藤沢武夫氏の「信頼第一」という姿勢を貫く、原体験となったのです。
藤沢武夫の信念がHONDAを救う
昭和29年(1964年)、藤沢武夫のこの信念がHONDAを救うことになります。
同年、新製品のスクーターは売れず、また看板商品「カブF」の売り上げも落ち込み、さらには主力エンジンの技術的トラブルという様々な問題が重なってしまいました。これにより業績は傾き、倒産を避けるために減産しかないという状況に陥ってしまいます。
しかし、減産するには部品の納入業者の説得や、組合に対して賃上げできないことを伝える必要があり、抵抗が予想されました。
しかし、HONDAはここで都合の悪いことを隠すことなく、HONDAの経営の現状を素直に伝え、「HONDAの将来のために今は痛みを共有してほしい」と関係者に伝えて回りました。
説明責任を果たして危機を乗り越える
こうして下請け業者や組合に真摯に向き合った結果、皆協力してくれることになり、なんとか危機を乗り越えることができました。
もちろん、こうした説明に応じてくれたことには本田宗一郎や藤沢武夫に対する、これまでの信頼があってのことです。しかし、その信頼にあぐらをかいて説明責任を果たさずにごまかしていれば、今の「世界のHONDA」は存在していなかったかもしれません。
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どんないいものを作っても、やはりそれを売るには流通の経路やユーザーへの理解が欠かせません。
また、企業として長くその活動を続け、成長していくにはステークホルダーとの関係性もまた重要です。
これらを当時から行っていた藤沢武夫のエピソードや精神を知ることは、きっと現在の企業経営にも役立つことでしょう。
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