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三善康信とは?初代問注所執事として活躍、源頼朝との関係は?【鎌倉殿の13人】

現代において争いごとは裁判によって解決されますが、昔は「戦や武力によって解決されてきた」というイメージが強いのではないでしょうか? しかし、実際は鎌倉時代にはすでに裁判所のような機関が存在していました。

今回ご紹介する三善康信は、鎌倉幕府において裁判や行政を担当していました。2022年に放送予定のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する1人であり、小林隆さんが演じることになっています。

また、13人の合議制の1人でもある三善康信は源頼朝からも信頼されており、最後まで鎌倉幕府に仕えていました。

本記事ではそんな三善康信の生涯や人物像、どのようなことをしてきたのかを解説していきます。

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三善康信(みよしやすのぶ)の生涯

それでは三善康信の生涯についてみていきましょう。

太政官の家系に生まれる

1140年(保延6年)に三善康光(みよしやすみつ)の子として生まれます。※

(※三善康久(みよしやすひさ)の子という説もあります。)

三善家は代々、日本律令制の大学料で算術を研究する学科である算道(さんどう)の家柄で、大学寮では算博士(教授)などをしていました。また、律令制下の最高国家機関である太政官(だじょうかん)において、書記官を代々担ってきた下級貴族でもあったのです。

また、三善家は古代から学問の家として知られており、平安時代前期の公卿・漢学者の三善清行(みよし の きよゆき/きよつら)は、大学頭、参議宮内卿、文章博士という高い地位にまで登りつめました。

それ以降の子孫は法律の研究をする明法(めいほう)や算道を家職として繁栄していったのです。鎌倉幕府内で三善康信が重宝されるようになったのは、このように勉学に長けていたことが関係しているのです。

源頼朝に京都の情勢を知らせる

このような家柄に生まれた三善康信は後々、源頼朝とともに幕政を支えていきます。しかし実は鎌倉幕府が開かれる前の源頼朝が将軍となる以前より、この2人には関係があったのです。

その関係とは、三善康信の母が源頼朝の乳母の妹であったこと。この縁もあって三善康信は、源氏と平時が争った平治の乱(へいじのらん)で敗れて伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)に流されていた源頼朝に月に3度、使者を送って京都の情勢を知らせていました。

ちなみに、源頼朝の乳母には比企尼(ひきのあま)、寒河尼(さむかわのあま)、山内尼(やまのうちのあま)といった人物がいますが、どの乳母の妹かはわかっていません。

しかし、源頼朝が伊豆にいる間におよそ20年間も経済的に支え続けた、比企尼の妹だとする説が最も有力です。

源頼朝に命の危険が及ぶ

1180年(治承4年)、77代天皇である後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に対して、平家を討つために挙兵するように令旨(りょうじ)を発しました。

「令旨」とは、皇太子ならびに太皇太后・皇太后・皇后の三后の命令を伝えるために出される文書のことです。

しかし、以仁王や源頼政が計画していた打倒平氏の挙兵は平家にバレて失敗してしまい、平清盛もまた、全国の平氏に対して源氏を討つように命じました。

奥州に逃げるよう源頼朝に伝える

鎌倉幕府にまつわる歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」によると、この動きについても三善康信は迅速に源頼政に伝えており、源氏の正統の頼朝は最も命の危険があるため、いち早く奥州(現在の東北地方保奥西武)に逃げるように伝えています

源頼朝はこの同じ月に挙兵しますが、三善康信の迅速な行動が大きな役割を果たしているのです。このように、源頼朝が過ごした暗い時代において、頼朝は三善康信にかなり支えられていたのです。

願文の草案を送る

1182年(治承6年)、源頼朝は伊勢神宮に参拝し、諸国の平和を願う願文を奉納します。

そして、三善康信はもともと公家だったため、京の儀式や作法、芸能に精通していました。源頼朝が奉納したこの願文の草案をつくり、送ったのも三善康信だったのです。

平氏を討つために挙兵する前から、源頼朝に大きな貢献をし続けていたため、三善康信は源頼朝が鎌倉幕府を開くために非常に重要な存在だといえます。

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源頼朝に誘われて鎌倉に向かう三善康信

以仁王の挙兵によって起こった「治承・寿永の乱」、そして「源平合戦」は6年も続きます。

このなかで三善康信は、1184年(寿永3年/元暦元年)に源頼朝に誘われて鎌倉に下ることになりました。同年4月に鶴岡八幡宮の廊下で源頼朝と対面した三善康信は、鎌倉で武家の政務を補佐するように頼まれ、これを受け入れます。

三善康信はこのまま鎌倉に移り住みますが、このとき源頼朝は鎌倉の大倉郷というところに御所を構え、康信はその御所のなかにある幕府の問注所の初代執事として、裁判事務の最高責任者を任されました。

その一方で、同年10月には新築された公文所では大江広元が別当となります。公文所とは財政を担当する機関であり、のちに「政所(まんどころ)」と改称される機関のことです。

問注所とは?

三善康信が執事(長官)として任命された「問注所(もんちゅうじょ)」とはどのようなところなのでしょうか?

問注所とは、訴訟事務の責任や権限を管轄する機関のことを指しています。「問注」とは、「訴訟の原告と被告を取り調べて、その言い分を記すこと」という意味です。したがって、「問注所」とは「問注を実施する場所」となります。

平安時代にも問注は行われていたようですが、場所は特定されていませんでした。しかし、鎌倉幕府が開かれると問注を行う特定の場所を決めて、問注所を設置したのです。

そして、この問注所のトップとなって三善康信は大江広元や公文所で働く中原親能(なかはらのちかよし)とともに、幕政を支えていくことになります。また、問注所の執事は鎌倉時代から室町時代になっても、三善氏が子孫代々受け継いでいきました。

なぜ問注所が設置されたのか?

平安時代にも行われていた問注ですが、当時はまだ特定の場所で行っていたわけではありませんでした。では、なぜ鎌倉幕府はわざわざ場所を決めて問注所を設置したのでしょうか?

その理由は、当時の社会情勢にありました。当時はまだ源平合戦が行われていた最中です。さらに源平合戦は従来の内乱と比べても規模が大きいものであったため、各国の所領を巡って幕府では訴訟問題が頻発していました。

そこで、これらの問題を迅速かつ円滑に解決する必要がありました。そこで、鎌倉幕府のプレゼンスを増すためにも、三善康信は朝廷で培った文官としての実務能力を活かして問題を収束させたのです。

とはいえ当初、この問注所は訴訟に対して裁判事務を行うのではなく、源頼朝に対する訴訟事案を通達することがその主な役割だったといわれています。

源頼朝の死後も幕政を支える三善康信

源頼朝は1199年(建久10年/正治元年)に死去した後は、第2代将軍には頼朝の嫡男である源頼家が就任します。しかし、源頼家は父・頼朝のような優れた政治スキルを持ち合わせておらず、また、まだ18歳と若かったため、独裁的な政治を行うようになります。

源頼家の独裁政治に危機感を抱いた御家人たちは、頼家が将軍に就任したわずか3ヶ月後、頼家を制御して支えるために「13人の合議制」を発足させました。

13人の合議制には北条時政や北条義時をはじめに梶原景時や和田義盛など有力御家人たちがメンバーとして名を連ねており、そのなかに三善康信も大江広元などとともに参加することになります。こうして三善康信は源頼朝が亡くなったあとも、鎌倉幕府を支える重要な存在となりました。

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訴訟が増えたことにより相談窓口を設置する

13人の合議制の建前は「まだ若い源頼家の独裁政治を制御すること」ですが、一方ではのちに執権として鎌倉幕府の実権を握る北条時政や北条義時の策略とする説もあります。

どちらにせよ、源頼家は病に倒れたことをきっかけに北条時政らによって将軍の座から追放され、幽閉されてしまいます。

頼家が追放されたあとは、第3代将軍として源実朝が就任しました。実朝の時代では訴訟件数が大幅に増えたことを受けて、三善康信は業務効率化を進めるために相談窓口の設置を行いました。

相談窓口の役割は、最終的な決裁を将軍に伺うまえに、その申立を引き受けるかどうかを事前に判定することにあります。この相談窓口の業務は三善康信だけではなく、公文所を統合した政所(まんどころ)の執事二階堂行政や、有力御家人の三浦義村なども行っていました。

承久の乱で活躍を見せる

1221年(承久3年)6月、82代天皇である後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために挙兵し、「承久の乱」が起こります。

このとき、三善康信は病に倒れていましたが、それでもお構いなしに軍事会議に参加しました。そして、即時出兵を主張していた大江広元を支持します。鎌倉幕府創立初期においては、三善康信と大江広元が手を取り合って組織を動かしていたことがわかります。

その結果、2人が主張していた強硬策が功を奏し、官軍と幕府軍が争ったこの同乱において、鎌倉幕府が圧勝のまま終わりました。

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三善康信の死後、問注所執事は子孫へと引き継がれる

三善康信は北条政子が頼朝の追討のために建立した寿福寺(鎌倉市扇ヶ谷)の「造作のはじめ」という儀式を執り行っているため、信心の深さが垣間見えます。

こうして生涯を通して鎌倉幕府に貢献し続けた三善康信ですが、承久の乱に勝った後、問注所の執事を辞職します。その後、息子である三善康俊(みよしのやすとし)が問注所執事に就任し、同年8月9日に三善康信は亡くなったとされています。

また、上記でも解説しましたが、問注所執事は鎌倉時代から室町時代になっても三善家の子孫が受け継いでいきました。それほどまでに三善康信の幕府への貢献が高く評価されていたということです。

三善康信にまつわる逸話

上記で三善康信の生涯を見てきましたが、彼は37年間という生涯を亡き源頼朝と鎌倉幕府の幕政に捧げ、幕府の発展に多大な貢献をしてきました。

そんな三善康信にまつわる逸話をいくつか見ていきましょう。

  • 源実朝の自宅に設置された問注所がうるさすぎて引っ越し?
  • 三善康信の子・三善康連は御成敗式目の制定に携わる
  • 姓を「問注所」に変えた子孫がいる

それでは1つずつ解説していきます。

源頼朝の自宅に設置された問注所がうるさすぎて引っ越し?

三善家が代々引き継ぐことになる問注所執事ですが、この問注所にまつわる少し笑える逸話をご紹介します。

鎌倉幕府が1184年(治承8年/元暦元年)に設置した問注所の場所は、なんと源実朝の邸宅内だったのです。しかし当然ですが毎日訴訟続きで怒号が飛び交い、あまりにもうるさすぎたため、源頼朝はうんざりしていまいます。

これにより問注所の移転が決定され、1192年(建久3年)には鎌倉名越にある三善康信の邸宅に移されました。三善康信の邸宅に移されてからは、幕府の書庫としての役割を担っていたといわれています。

三善康信も騒音に耐えかねる?

三善康信の邸宅に問注所が移されて万事解決かと思われましたが、そうはいきませんでした。

その後の1199年(建久10年/正治元年)には、幕府の郭外(仕切られた地区の外。 城・遊里などの囲いの外)に問注所が新たに設置されたのです。さすがの三善康信も源頼朝と同じように、自宅にある問注所のあまりの騒音に耐えきれなかったのかもしれません。

また、実際は三善康信の邸宅への移転は臨時措置だったとする説もあります。

実際は違う理由で移転された?

問注所が移された理由は源頼朝が騒音に耐えきれなかったからとされていますが、そうだとすると源頼朝が移転を命令してから新設されるまでに時間がかかりすぎではないでしょうか?

これにより、実は源頼朝が本当に移転を決定したのかは疑問視されています。実際は他の理由があって幕府郭外に移されたのではないか?とする指摘も挙がっているのです。

三善康信の子・三善康連は御成敗式目の制定に携わる

語呂のいい言葉として頭に残る「御成敗式目」ですが、実は三善康信の子である三善康連(みよしのやすつら)が御成敗式目の制定に大きく関わっているのです。

そもそも御成敗式目とは、鎌倉時代に道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された武家政権のための法令で、1232年(貞永元年)8月27日に制定されました。

この御成敗式目の制定に三善康連が携わることができたのは、法務に精通していることで知られていた三善家だったからこそでしょう。

姓を「問注所」に変えた子孫がいる

そして極めつけが、姓まで変えてしまった子孫がいるという逸話です。

繰り返しになりますが、問注所執事は三善康信が初代執事を務めてから、代々三善康信の子孫が引き継いでいくことになっていました。そして、三善康信の子孫の三善康行は自身の役職を冠して「問注所康行」と名乗るのです。

中世においては、人のことを地名や官職で呼ぶことも珍しくなかったため、不思議ではありませんが、現代の私達の感覚からするとすごいですよね。

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まとめ

ここまで三善康信の生涯や人物像についてみてきました。

三善康信は以仁王の令旨によって、源頼朝に命の危険が迫っていることを知らせ、逃げるように伝えています。このように、三善康信は源頼朝が幕府を開く以前から頼朝を支えており、頼朝にとっても頼れる存在だったことがわかります。

また、問注所の長官としても活躍し、幕政を支えていき、その役職は子孫へと引き継がれていきました。

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