分断という言葉をよく耳にするようになりました。
それはイデオロギーの対立であったり、経済格差であったり、政治、宗教、ジェンダーと、多分野・広範囲におよびます。
それらが地域を分断し、社会、国、さらには世界を分断することもあります。
「文系vs.理系」にいたっては、もはや古典的な対立・分断の1つといっていいのかもしれません。
これは結構、根深いのではないでしょうか。
「あれは、理系の特性だね」とか、「わたしは文系だから、そんな仕事ムリだよ」など、日常的な会話の中にも、この分断が潜んでいます。
しかし、分断はさらなる分断を招いてしまいます。
今は「文系だ理系だ」などと言っている場合ではない、というお話をしたいと思います。
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目次
文系は不要か
文系と理系の特性に関して、以下のようなものがあります。
「理系の学問はすぐに社会に役立つが、文系の学問はそうではない」
それがさらに、文系不要論にまで発展します。
象徴的な出来事がありました。
2015年6月、文部科学省が国立大学に宛てた通知を発表しました。
「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という長い名前の通知です。
それを読んだ大学関係者、特に文系学部の関係者に激震が走り、大きな騒動に発展しました。
その通知の中に文系学部の縮小・再編を求める下りがあったからです [1]。
筆者は当時、文系の総合政策学部に所属する大学教員でしたが、その衝撃は忘れることができません。
教授会の議題として取り上げられ、なにかにつけてこの話題が持ち出され、大学はこの話でもちきりでした。
通知が公表された翌月、日本学術会議幹事会はこの通知に反対する声明を発表し、公開シンポジウム「人文・社会科学と大学のゆくえ」を開催しています [2][3]。
この騒動の根底には、「実利的な理系」vs.「観念的な文系」という対立・分断があります。
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「科学立国」の系譜
~文系・理系はいつ分かれたのか~
では、文系・理系の分離はいつから始まったのでしょうか。
このことに関して、最近、面白い本に出合いました。
その名も『文系と理系はなぜ分かれたのか』 [4]。
この本では、ヨーロッパにおける大学の誕生に始まり、その後の諸学問の発達と大学での位置づけについて詳細で興味深い記述がなされていますが、ここでは日本の話に絞りましょう。
時代は1910年代まで遡ります。
中等教育について定めた「第二次・高等学校令」に、「文科」「理科」と明記され、これ以降、大学入学試験の準備段階で文系志望・理系志望という二分した方式が定着していきました。
実は、同時期、ヨーロッパの大学入試制度にはこれほど徹底した分化は見られません。
ドイツは共通試験に受かればどの学部でも選べ、イギリスのエリート校は数学から古典まで幅広い知識を競う入試方式でした。
それと比較すると、日本のような文・理を分かつ入試方式は独特だったといえます。
こうした傾向は実は今でも続いています。
例えば、アメリカからの留学生に専攻を尋ねると、
「微生物と日本文化」
「ナノテクノロジーと東洋思想」
「情報工学と日本語」
などという回答も珍しくありません。
アメリカでは、複数の学問分野を専攻できるダブルメジャーは珍しくなく、専攻も3年生までに決めればよいのです。
さらに専攻した複数他分野の学位が取得できるダブルデグリー制度を備えた大学もあるとのことです。
それも、文・理を横断した分野もありなのです。
さて、話を戻しましょう。
日本の明確な文・理分化には、日本の大学が元々、官僚の育成機関であり、法学と工学の実務家養成を目的に作られたという背景があります。
~文系の苦悩~
1910年代の大学生は全人口の1%というエリートです。
彼らの進路を、当時の大学生のほとんどを占めていた男性に限ってみてみましょう。
当時は、法学を修めた人は司法官や弁護士に、経済学を修めた人は企業や銀行、理工系は官庁から企業までと幅広い職業に就いていました。
一方、文科出身者は、帝国大学卒でも、学校職員か文筆家に進路が限られていました。
社会階層的にも、理工系の卒業生は旧士族が80%を占め、自然科学・技術は旧支配層の学問という側面もありました。
戦争が近づくと、理工系重視の政策が助長されていきます。
理系の学生たちが兵器開発研究のために動員される一方で、兵力を補うための学徒動員が本格化したとき、そのターゲットは文系の大学生や旧制高校の文系学生だったのです。
~科学技術立国~
はじめにみた「騒動」が「科学技術立国」というコンセプトと強く結びついていることは明らかです。
科学技術をイノベーションにつなげ、国の力を増強しようとする体制です。
その系譜は実は脈々と受け継がれてきたものです [4]。
「科学立国」という言葉が盛んに使われるようになったのは、1940年頃から。
当時、国策のために自然科学系の科学者・技術者を総動員する体制が作り上げられました。
1960年代以降の高度経済成長期、日本が目指した経済的繁栄の手段は、科学・技術力が重要視されました。
「所得倍増計画」では、大学理工学部の学生定員が大幅に増やされました。
さらに、1980年代は、日米貿易摩擦を背景に「科学技術立国」が叫ばれ、1990年代以降からは、科学技術基本計画にしたがって、自然科学・技術分野の研究に巨額が投下されていきます。
こうした状況下、国立大学の人文・社会科学系は理工系に比べ、小規模にとどまりました。
~大学・大学院における文・理の不均衡~
生活水準が上がり、進学率が高まると、文系志望の学生の受け皿は私立大学の文系学部になりました。
2017年、「人文科学」と「社会科学」学部生のほぼ90%が私立大学に在籍しています。
一方、「理学」、「工学」は60%程度、「農学」は50%です。
女性の多い「家政」学部は90%以上が私立大学に、男性の多い「商船」は100%が国立大学に集中しています。
以上のことから見えてくるのは、国家建設や産業振興のための分野は国立大学に、それ以外の分野は私立大学にという偏りです。
こうした傾向は、研究者養成ではより顕著です。
2013年、日本における「自然科学」と「人文・社会科学」の博士号取得者比率は5対1で、日本と同様に実学を重んじるドイツの同比率3対1と比べても、理工系研究者育成偏重が際立っています。
こうした偏りは、果たして現在の社会に適合するものといえるでしょうか。
今の時代に求められる人材
文系学部再編成をめぐる冒頭の騒動は文系の存在意義を問い直す契機となりました。
2017年、大阪大学文学部長の金水敏教授は、この騒動を念頭におき、卒業セレモニーの祝辞として次のように述べ、話題になりました [5]。
(前略)
文学部で学んだことがらは、皆さんお一人お一人の生活の質と直接関係している、ということです。私たちは、生きている限り、なぜ、何のために生きているのかという問いに直面する時間がかならずやってきます。もう少し具体的に言えば、私たちの時間やお金を何に使うのかという問いにも言い替えられますし、私達の廻りの人々にどのような態度で接し、どのような言葉をかけるのかという問いともつながります。逆に大きな問題に広げれば、日本とは、日本人とは何か、あるいは人間とはどういう存在なのか、という問いにもつながるでしょう。文学部で学ぶ事柄は、これらの「なぜ」「何のために」という問いに答える手がかりを様々に与えてくれるのです。いや、むしろ、問いを見いだし、それについて考える手がかりを与えてくれると言う方がよいでしょう。
(中略)
人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。
この文章は私たちに文系の有用性を改めて気づかせてくれます。
理系のような実利的な効用、即効性はないけれど、人が根源的な問いに目を向け、その問いに向き合おうとするとき、文系での学びはその思索の力となる。
そのような意味において有用であるという考えです。
これは筆者の経験、知見とも符号します。
現在こそ、こうした文系の力が必要とされる時代だと筆者は考えます。
もちろん、文系の方が理系にまさるなどという、一元的な話をしているわけではありません。
文系か理系かなどという二者択一的な視座に代わり、分野横断的な視野と知見が求められる時代ではないかと主張したいのです。
最後にそのことについて考えてみたいと思います。
イノベーション政策3.0とVUCAの時代
先ほどみたように、戦後も理工系重視の傾向は変わりませんでした [4]。
その背景となるのは、1950年代の高度経済成長期に欧米から導入された「技術革新論」の影響です。
この「技術革新論」は、科学をもとにして技術革新を図り、生産性を向上させ、国民経済の成長を達成させようとする考え方で、近代以降最初のイノベーション政策です。
これは、「イノベーション政策1.0」と呼ばれています。
ところが、イノベーション政策1.0は、想定されていたほどの成果をもたらさず、途上国の経済格差を産み出してしまいました。
それに続く「イノベーション政策2.0」は、特にアメリカで多くのベンチャー企業を誕生させ、それがアップル、グーグル、マイクロソフト、アマゾン、フェイスブックというアメリカのトップ5企業に発展しました。
どれも理工系の専門性を生かした多国籍企業です。
ところが、これらのイノベーション政策は負の遺産をもたらしたことが、2010年代になって明白になりました。
深刻な経済格差と地球環境への悪影響です。
経済的な不平等は社会を分断し、政治危機や治安悪化をもたらしました。
地球環境の悪化も深刻です。
そこで、現在は「イノベーション政策3.0」が提唱されています。
この政策は非常に大きな意味をもっています。
なぜなら、課題の対象には、経済だけでなく、環境や社会も含まれているからです。
2015年に国連で採択されたSDGsは、こうした動きと連動しています。
「誰ひとり取り残さない」というスローガンが象徴的なこの開発目標は、経済発展だけを目指したものではありません。
世界中の地域におけるさまざまな課題を、包括的に解決していこうとする方向性を持っています。
現在、多くの企業は、こうした流れにそったブランディングに取り組んでいます。
ビジネスを経済活動に特化させず、環境問題や多様性にも配慮したインクルーシブな活動にしていこうとする方向性です。
たとえば、手頃な値段で消費者にとって重宝な商品を開発し生産したとしても、その陰に生産国における低賃金労働や児童労働、あるいは環境汚染がある―そんな企業には厳しい目が向けられる時代なのです。
企業はそうした課題に積極的に取り組むことが求められます。
さらに、現在はVUCAと呼ばれる、不安定で不確実な時代です。
このような時代にあっては、文系・理系という分断はもはやナンセンスです。
自然科学の知見と金水敏氏が述べたような文系の知見を組み合わせ、様々な要素が複雑に絡み合った課題の糸口をみつけ、解きほぐしていかなければなりません。
こうした流れをふまえ、経団連もこれからの人材育成について、以下のように述べています [6]。
最終的な専門分野が文系・理系であることを問わず、リテラシー、論理的思考力、規範的判断力、課題発見・解決力、未来社会の構想・設計力などが求められる。
様々な知見を関連づけ統合するためには、ある分野の専門性だけに頼るのではなく、分野横断的な教養と視野が必要です。
今はまさにそのような能力を備えた人材が必要とされる時代ではないでしょうか。
「文系だ、理系だ」などと言っている場合ではないのです。
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下積みとは「スキル獲得」ではなく、むしろ「信用獲得」の期間。
参照
[1]文部科学省(2015)「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知)」(2015年6月8日)
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/10/01/1362382_1.pdf
[2]日本学術会議幹事会(2015)「声明 これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系の あり方-に関する議論に寄せて」(2015年7月28日)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-kanji-1.pdf
[3]日本学術会議第一部 (2015)「公開シンポジウム『人文・社会科学と大学のゆくえ』」チラシ
https://www.isij.or.jp/event/event2015/data/muhjbzfhp.pdf
[4]隠岐さや香(2020)『文系と理系はなぜ分かれたのか』海星社会 e-SHINSHO(Kindle版)
[5]SKinsui’s blog(金水敏氏ブログ) 2017年3月22日
http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/2017/03/post-ccef.html
[6]経団連(2020)「採用と大学教育の未来に関する産学協議会・報告書 Society 5.0に向けた大学教育と採用に関する考え方ー概要」
https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/028_gaiyo.pdf