2022年スタートした、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
大河ドラマは毎年話題になりますが、今年取り上げられるのはどんな人物なのかご存知でしょうか。
今回は、「鎌倉殿の13人」に登場する、國村隼さん演じる大庭景親(おおば かげちか)について解説していきます。
ドラマの公式Twitterでは、大庭景親について「平清盛の信頼厚い相模一の大物。
平家の威光を背景に『坂東の後見』とも言われる影響力を持つ。挙兵する頼朝の前に大きな壁となって立ちはだかる」と紹介されています。
大庭景親は戦場で源頼朝を追い詰めた唯一の武将ですが、大庭景親に関する史料はあまり残されておらず、謎が多い人物でもあるのです。
そこで本記事では、大庭景親についてわかっていることから基本的な知識や人物像、エピソードなどを解説していきます。
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目次
源氏に仕えていた大庭景親
1140年(保延6年)、相模国(現在の神奈川県)に豪族である大庭景宗(おおば かげむね)の3男として生まれたのが大庭景親です。
桓武天皇の子孫にあたる鎌倉政景(かまくら まさかげ)の本家から分かれ出た家系だとされていますが、実際のところは系図はあやふやになっており、よくわかってはいません。
ただし、鎌倉政景が開いた大庭御厨(おおばのみくりや)を代々運営していたのが大庭氏の一族だったということはわかっています。
「御厨(みくりや)」とは、古代や中世において皇室や伊勢神宮などの神饌(神に召し上がり物として供える飲食物)を献納するために設けられた土地や建物のことです。
そして、大庭御厨は相模国で最大の御厨でした。
つまり、大庭氏は朝廷から現地の事務を任される役人のようなポジションだったのです。
保元の乱で源義朝に従う
1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景親は兄弟揃って源頼朝の父・源義朝に従い、功績を残しました。
しかし、長男である大庭景義(おおば かげよし)がこの戦いのなかで、源為朝(みなもとの ためとも)が打った矢が膝に刺さってしまい、歩けなくなるほどの重症を負います。
景親は景義をなんとか助け出しましたが歩行困難になってしまったため、景義は隠退して家督を弟の景親に譲ったとされています。
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源氏から平家へ鞍替えする大庭景親
長きに渡って源氏に仕えてきた大庭景親でしたが、1159年(保元4年または平治元年)に起こった平治の乱で源義朝が討たれ、源氏が没落してしまいます。
これを受けて源氏に従っていた大庭景親も一時は囚われの身となりますが、平家側の意向によって運良く許され、助命されることになりました。
これに対して大きな恩義を感じた大庭景親は、平家の棟梁である平清盛に名馬を贈り、東国の後見を任されるに至りました。
つまり、仕えていた源氏が敗れて囚人となった大庭景親ですが、平氏に取り立てられることで再び権力を握ることに成功したのです。
しかし、なぜ平家側は源氏に仕えていた大庭景親の命を助けたのでしょうか?
平家側が大庭景親を許した理由
平家側が大庭景親を許した理由として挙げられる理由は、大庭景親は源義朝とはあまり懇意にしていなかったことが挙げられます。
大庭景親は源氏に仕えていたとはいえ、源義朝とは比較的疎遠だったのです。
なぜ、大庭景親と源義朝は疎遠だったのでしょうか? そもそも大庭景親は自発的に源義朝に仕えていたわけではなく、後白河天皇の命令で出陣しただけと言われていますが、それだけが理由ではありません。
2人が疎遠である理由の真相は「大庭御厨事件」にあります。
大庭御厨とは、上記でも解説したように大庭氏が代々運営していた伊勢神宮への寄進地系荘園です。
「寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)」とは、国司から収奪を避けるために、「所有地で採れたものは寺社に寄進する」という形で節税をしていたものです。
寄進された者は国家権力の介入を排除する特権を得ていました。
大庭御厨事件とは
この大庭御厨をめぐって起きた騒動が「大庭御厨事件」です。
大庭御厨から徴税したかった役人が「大庭御厨の範囲内にある鵠沼(くげぬま)は、鎌倉郡に属する公領(国の土地)である」と主張したことがこの事件の発端となります。
そして、役人は当時鎌倉に住んでいた源義朝と、相模国目代(国守の代理)の源頼清(みなもとのよりきよ)と結託して、大庭御厨に乱入したのです。
東相模で武士団・三浦党を統率する三浦義明(みうら よしあき)、西相模で武士団・中村党を率いる中村宗平(なかむら むねひら)の軍勢を合わせて1,000騎もの軍勢で押し寄せ、死傷者が出るほどの騒ぎとなりました。
伊勢神宮側も黙っているわけにはいかず、源義朝を処罰するように役人に訴えますが、役人側は「管轄外である」として無視したとされています。
この一連の騒動が大庭御厨事件です。
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頼朝軍とぶつかり、大庭景親が圧勝し活躍を見せる
平治の乱の後、平清盛という大きな後ろ盾を得た大庭景親は相模一帯の武士団を束ねていきました。
1180年(治承4年)5月に以仁王(もちひとおう)が平家打倒のために挙兵すると、大庭景親は足利忠綱(あしかがただつな)とともに追討の任にあたり、これを撃破します。
この後、大庭景親は平家の家人である上総介伊藤忠清(かずさのすけ いとうただきよ)に呼ばれ、長田入道(おさだ にゅうどう)から、北条時政が伊豆の流人である源頼朝を擁立して謀反を起こそうとしているという密書の存在を知らされました。
実際、源頼朝は兵を挙げるために準備をしており、そのなかには大庭景親の兄である大庭景義もいたのです。
兄・大庭景義との決裂
さらに、大庭景親は兄・景義との間で意見が真っ二つに分かれてしまいます。
大庭景親は源頼朝を討伐するべきだと考え、景義は源頼朝に協力するべきだと考えたのです。
しかしこのとき、大庭景親はとあるミスを犯してしまいます。
それは、佐々木秀義(ささきひでよし)を屋敷に招いて、源頼朝が挙兵しようとしていることを相談したことです。
佐々木秀義は秘密裏に源氏を支持しており、秀義の息子や景義とともにすでに源頼朝と通じていました。
これを受けて秀義はすぐに使者を送って源頼朝に知らせると、源頼朝は既に情報が洩れていることに驚き、すぐ挙兵するように決意したのです。
そして源頼朝は伊豆目代(鎌倉時代の地方官の代理人)である山本兼隆(やまき かねたか)の館を遅い、山本兼隆を殺害し、兵を率いて相模国・土肥郷に進軍します。このように源頼朝が兵を挙げたことによって、大庭景親は兄・景義と決裂しました。
300余騎で3,000余騎に戦いを挑んだ源頼朝
挙兵して山本兼隆を殺害した源頼朝の軍勢でしたが、実にこの時、総勢で300余騎しかいませんでした。
対する大庭景親が率いる軍勢はなんと3,000余騎。この時点で圧倒的な兵力差がありましたが、そこに追い打ちをかけるように背後から伊東祐親(いとうすけちか)の300余騎の軍勢が現れます。
関東には源氏の家人であった武士が多く存在しましたが、平治の乱で源義朝が討たれてから源氏は没落したため、関東でも平家側に仕える武士が多かったのです。
また、源頼朝は挙兵を急いだため、まだ仲間を集める途中でした。さらに、頼みの綱であった三浦一族とも合流できていなかったのです。
石橋山の戦いで圧勝する
このような状況の中で、源頼朝はわずか300余騎で土肥実平(どひ さねひら)の所領がある相模国に進軍し、大庭景親が率いる3,000余騎と戦うことになりました。
これが「石橋山の戦い」と呼ばれるものです。
三浦一族の軍勢と合流しようとしていることを知った大庭景親は、豪雨で日が暮れているにも関わらず源頼朝の軍勢に突撃して、三浦一族が戦場に着く前に圧勝を収めました。
圧倒的な兵力を前に大敗を喫した頼朝軍は山中に逃げ延び、大庭景親は源頼朝を捜索しましたが、ここで歴史を動かす出来事が起こるのです。
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大庭景親、側近の梶原景時に裏切られる
石橋山の戦いで圧勝した大庭景親は、翌日に山中に逃げ込んだ源頼朝を討つべく、追撃を行います。
しかしこのとき、平家側の軍の中には源頼朝に与する人物がいました。それが梶原景時(かじわら かげとき)や飯田家義(いいだ いえよし)らです。
飯田家義は源頼朝のもとにすぐに向かおうとしていましたが、大庭景親の軍勢が多く、あまり自由に動くことができなかったといいます。
しかし、梶原景時は洞窟に隠れていた源頼朝を発見した際に、「中には誰もいない」と嘘をついて他の兵には別の場所を探すように示し、源頼朝の命を救ったのです。
こうして大庭景親は側近であった梶原景時の裏切りによって、源頼朝をすんでのところで取り逃がしてしまいます。
体制を立て直して2万の軍勢を率いる源頼朝
石橋山の戦いは、源頼朝の生涯で唯一といえる負け戦となりました。しかし、大庭陣営の梶原景時の裏切りによって命を救われた源頼朝は、命からがら逃げ延びて安房国(あわのくに/現在の千葉県南部)に渡ります。
源頼朝は上総国(かずさのくに/現在の千葉県中央部)と下総国(しもうさにくに/現在の千葉県北部~西武)の大領主である千葉常胤(ちばつねたね)と上総広常(かずさひろつね)を味方につけて、両国の武士たちを従わせました。
こうして体制を立て直した源頼朝は、あれよあれよという間に2万を超える大軍となっていたのです。
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富士川の戦いで降伏する大庭景親
源頼朝に逃げられた大庭景親は平清盛のもとに報告をして、追討の兵を準備しますがグズグズとしている間に源頼朝が大軍を率いてしまいました。
そしてようやく平維盛(たいらのこれもり)を総大将とする軍勢が、遅れに遅れて出発。道中、諸国の武士を集めつつ進行したものの、西国の飢饉によって士気は下がっていました。
さらに、源氏の大軍とぶつかった平維盛率いる平家軍は、「富士川の戦い」で戦うことなく敗走してしまったのです。
この情けないエピソードは有名で、言い伝えによると「羽音を聞いただけで逃げ惑った」とされています。しかし、さすがにこれは軍記物語の誇張表現であり、平家軍は夜襲の気配を察知して撤退したという説もあります。
大庭景親の最期
一方で大庭景親は平家軍と合流するために1,000余騎で進軍しますが、西方は敵方であふれており、突破することができなかったため仕方なく兵を解散し退散します。
その後、退散した大庭景親は河村山(現在の神奈川県足柄上郡山北町)に身を潜めて様子をうかがっていました。
しかし、頼みの綱の平維盛の軍勢は富士川の戦いで敗走、さらに兵力も次々と脱落し敵方に寝返る勢力も出てきたため、孤立無援となった大庭景親は10月23日に源頼朝に降伏しました。
そして、降伏後は鎌倉方の有力御家人である上総広常に任せられます。
命だけは助けてほしいと請う大庭景親でしたが、源頼朝はそれを許さず固瀬川(=片瀬河原。現在の神奈川県藤沢市、境川)で処刑され、さらし首となりました。
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大庭景親に関する逸話やエピソード
大庭景親に関する逸話には下記のようなものがあります。
- 自身の妻を誤って斬り殺してしまう
- 後北条氏の拠点となった大庭城
それでは1つずつ解説していきます。
自身の妻を誤って斬り殺してしまう
静岡県三島市には「妻塚観音堂」という、大庭景親の妻をまつる祠があります。
源頼朝は源氏再興を祈って三嶋大社に通っていたのですが、大庭景親はこの時に源頼朝を討つことはできないかと命を狙っていました。
そしてある夜、大庭景親は源頼朝らしき人物を見つけて斬り殺します。しかし、それは源頼朝ではなく自分の妻でした。
大庭景親の妻は源氏に縁がある家柄だったので、景親をなんとか止めようとして待ち伏せしていたのです。その後、大庭景親は自身の行いを悔やみ、妻の冥福を祈るための祠をつくったといいます。
後北条氏の拠点となった大庭城
大庭御厨には大庭城という城がありましたが、大庭城があった地は現在でも大庭城跡として藤沢市指定史跡として残っています。
「大庭の館」と呼ばれていた大庭城は、大庭景親の父・景宗が築城したものであり、軍事拠点としての役割を持っていたのです。
そして、この城は戦国時代には後北条氏の拠点として使われました。
まとめ
ここまで大庭景親の生涯や逸話についてみてきました。
源氏に仕えたこともありましたが、平家方に命を救われてからは最期まで平家に仕えた大庭景親。
最終的には処刑されてさらし首にまでされましたが、景親の兄・大庭景義は源頼朝に仕えた結果、鎌倉幕府の御家人として重用されて天寿を全うしています。
平氏について処刑された景親と、源氏について御家人として活躍した景義。どちらにつくかで人生が大きく変わることになった兄弟ですが、大庭景親も源氏についていればまた違った歴史があったのかもしれません。
さらに、梶原景時が源頼朝を見つけた時に殺害していれば、平氏の時代がさらに続き、今度は大庭景義が処刑されていたことも考えられます。
しかし、歴史に「もし」はありません。
このような数々の出来事の上に鎌倉幕府が成立したと考えると、奇跡的な出来事だということがわかります。