『御恩と奉公』は鎌倉幕府において、将軍と御家人の主従関係から生まれました。「御恩と奉公」や「御家人(ごけにん)」といった言葉は日本史の勉強で耳にした方も多いかと思います。しかし、
- 「御恩と奉公ってどんなシステムだったの?」
- 「どうして御恩と奉公が生まれたの?」
- 「御家人はどのような人を指すの?」
その正確な意味や背景については詳しく知らないという方も多いのではないでしょうか?
そこで本記事では、御恩と奉公の基本的な知識から、生まれた背景や理由、そして御恩と奉公とともに鎌倉幕府が滅亡した理由などを解説していきます。
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御恩と奉公の前に「御家人」を理解しよう
御恩と奉公について理解するためには、その前に「御家人」について把握しておく必要があるでしょう。
そもそも、「武士」と「御家人」の使い分けや違いについて正確に理解していないという方も少なくありません。また、鎌倉時代の御家人と江戸時代の御家人では、正確には違う点もあり複雑になっています。
まず、鎌倉時代における御家人とは「将軍と主従関係を結んだ武士」のことを指しています。そして、この御家人は将軍と「御恩と奉公」の関係が成り立っていたのです。
鎌倉時代以前は「家人」と呼ばれていた
正確には、鎌倉時代より前にも主君と主従関係にある武士身分の者は存在しましたが、当時は御家人ではなく「家人(けにん)」または「郎従・郎党」という名前でした。
しかし、鎌倉幕府が成立したあとからは将軍の家人は「御」を足して「御家人」と呼ばれるようになったのです。
鎌倉幕府においては、御家人は固定的な身分の呼び方となり、御家人ではない人のことは「非御家人」と呼ばれて明確に区別されていました。これにより、御家人が身分を表す呼び名として定着し、鎌倉時代が終わっても「御家人」という名前が使われていきます。
また、御家人になるためには「名簿(みょうぶ/なづき・名符)」と呼ばれる、古代日本で用いられていた自身の官職や名前が記された名札・文書を、提出して「見参の礼」という対面の儀式を行う必要がありました。
これは現代で言うところの、手続きするための本人確認といったところでしょうか。
江戸時代の御家人
鎌倉時代から江戸時代に変わると、御家人が示す意味合いも異なってきます。江戸時代では、御家人は「旗本」と分けるために用いられることが多くなりました。
旗本とは、中世から近世における武士の身分のひとつであり、江戸時代の徳川将軍家に仕える家臣団のうち、石高(土地の生産性を「石」という単位で表したもの)が一万石未満で、さらに将軍が儀式などに参加する際に将軍に直接拝謁できる資格をもつ者を指しています。
対して、将軍に直接拝謁する資格がなく、石高が一万石以下の者を御家人と呼ぶようになりました。将軍に御目見(拝謁すること)できるかどうかで、旗本のほうが御家人よりも立場が上であることがわかりますね。
石高が多い武士=位が高い武士となる
石高は土地の生産性を表したものですが、具体的には管理している土地からどれだけの米が穫れるかを指しています。1石は180.39リットルであり、日本酒を入れる際に用いられる一升枡のおよそ10倍です。
したがって、これが一万石ということは、相当な量だということがわかるのではないでしょうか。もちろん、所有する土地が多ければ多いほど取れる米の量も増えますので、「石高が高い武士」は「所有する土地が多い武士」となり、必然的に「位が高い武士」となります。
つまり、鎌倉時代の御家人と比べて、江戸時代の御家人は下級武士として扱われており、鎌倉時代とは立場が異なることがわかります。ちなみに、一万石以上の武士は「大名」と呼ばれていました。
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それでは御恩と奉公について解説していきます。鎌倉時代においては将軍と御家人は、この御恩と奉公による主従関係にありました。「御恩」は将軍から御家人に対して与えられるもので、「奉公」は御家人から将軍へと与えられるものです。
また、上記で解説したように、武士は「名簿」を捧げ、将軍に見参することで御家人になることができます。
そして武士が御家人になることで、将軍から「御恩」として、先祖から何代にも渡って受け継いだ領地支配を保障される「本領安堵(ほんりょうあんど)」、または新しく領地を与えられる「新恩給与(しんおんきゅうよ)」を受けることができました。
それでは、「本領安堵」と「新恩給与」について詳しく解説していきます。
本領安堵とは?
「本領」とは元々持っていた領地のことで、「安堵」とは幕府や領主が、土地の所有を承認し保証することです。
鎌倉時代ではほとんどの御家人は、まだ切り開かれていない土地を開発し、その領有権をもつ「開発領主」と呼ばれる者の子孫でした。つまり御家人はこの開発領主の子孫として、先祖から受け継いできた土地を持っていたのです。
そして鎌倉幕府は本領安堵によって、「安堵状」と呼ばれる証明書を発行することでその土地の領有権を認めて、御家人との間に封建的主従関係を結びました。
ちなみに、家臣が主君に対して従軍などの軍役を奉仕して仕える代わりに、主君は家臣に対して領地を与えてこれを守る義務を負うという、土地で結ばれた主従関係を「封建的主従関係」と呼びます。
御家人を地頭に任命した源頼朝
当時リーダーとして選ばれた源頼朝は、本領安堵を行うことを目的に御家人を「地頭」という役職に任命したのです。地頭とは、将軍が選んだ特定の地域や土地の人々を管理または支配する権限を持つ役職のことです。
新恩給与とは?
新恩給与とは、中世の武家社会において、主君が家臣に対して新たな土地を与えることを指しています。主君への「奉公」に対する、主君からの「御恩」の最たるものとして先程解説した本領安堵と並ぶものです。
具体的には、新恩給与が行われる際は「充文(あてぶみ)」または「充行状(あておこないじょう)」と呼ばれる文書が発行されます。充文とは、古代から近世にかけて土地や役職を与える際に、土地を与える人物が発行する文書のことです。
土地を与えられた者は自由に処分することはできませんでしたが、子孫に引き継ぎ、安堵を受けることができました。
新恩給与の問題点とは?
このように、「土地を与える」という一見シンプルな仕組みですが新恩給与は、実は大きな問題を孕んでいました。その問題は、「すでに支配・管理している人物がいる土地を新恩給与しようとするとトラブルにつながる」という点です。
それまで土地の支配者だった人物に、地頭に新たに就いた御家人から「これからは私がこの土地の支配・管理をするからお前はもう用済みだ」と言われようものなら、トラブルに発展するのが容易に想像できますよね。
したがって、新恩給与をする際にはトラブルを避けるためにも原則、支配・管理をしている人物がいない土地を与えることになっていました。実際、鎌倉時代初期の頃は治承・寿永の乱で負けた平家の土地を奪って、新恩給与が実行されていたのです。
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そもそも御恩と奉公というシステムはどのようにして誕生したのでしょうか?
その背景を探るには、「源平合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)に遡る必要があります。これは、1180年から1185年の間に生じた大規模な内乱であり、後白河法皇の皇子以仁王が挙兵したことをきっかけに起こりました。
以仁王は安徳天皇を即位させた平家を倒すために全国に呼びかけたのですが、この際に呼びかけに応えたうちの1人が、平清盛によって伊豆に幽閉されていた源頼朝です。
源頼朝が平家を倒すために挙兵したことにより、関東の武士が源頼朝のもとへ集結し、源頼朝はあっという間に関東一帯の武士を束ねるリーダーとなりました。
源頼朝がリーダーとして選ばれた理由
しかし、源頼朝以外にも呼びかけに応えた人は多くいたはずですが、なぜ源頼朝がリーダーとして台頭したのでしょうか?
その理由は、主に下記の3つが挙げられます。
- 源頼朝は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族の清和源氏の血筋にある特別な存在だった
- 源頼朝の父である源義経は関東の武士を束ねた人物だった
- 源頼朝のカリスマ性や人望によるもの
さらに、関東の武士たちの間では下記のような事情があったことも理由です。
- 武士の土地争いが激しくて関東が混沌としていたため、平和に導くリーダーが求められていた
- 朝廷の貴族は武士のことを軽視しており、活躍に相当する恩賞を与えてくれなかったため、武士が報われる世界に導くリーダーが求められていた
このような事情や背景によって、特別な血筋があり、才能のある父親がいて、武士にとって望ましい未来を実現してくれそうな源頼朝がリーダーとして選ばれたのです。
御恩と奉公が誕生した経過
こうしてリーダーとしての活躍に期待が集まった源頼朝でしたが、源頼朝自身も武士の複雑な利害関係や、武士が朝廷からの支配を疎んでいたことなども理解しており、自身の役割についても正確に把握していました。
これにより、源頼朝は血の気の多い武士を統率するためには、従来にはない新たな関係性を構築する必要があると考えたのです。
この結果、誕生したものが「御恩と奉公」という新たなシステムでした。繰り返しになりますが、御恩と奉公とは簡単に言うと「ギブ・アンド・テイク」による関係性です。
源頼朝は武士たちに土地を与えたり、土地の領有権を認めることで武士の課題を解決する(御恩)代わりに、武士たちは平家に勝つために源頼朝と戦ってもらうこと(奉公)を考えました。
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それでは、御恩と奉公の「御恩」と「奉公」は具体的には何を指しているのでしょうか?
「御恩」は上記で解説したように、「地頭に任命すること」です。つまり、土地の領有権を認める「本領安堵」と土地を新たに与える「新恩給与」の2つのことを指しています。
それでは、「奉公」はどのようなことを意味しているのでしょうか?
奉公とは?
「奉公」は簡単に言うと、本領安堵や新恩給与といった御恩のお礼として、将軍のために将軍のために戦うことや経済負担をすることを指しています。
御恩と奉公というシステムができた当初は源平合戦の最中だったため、奉公は「源頼朝と一緒に平家を倒すこと」を指していましたが、戦乱が終わり平時になると奉公は下記の3つの方法で実践されるようになりました。
- 戦のときのための軍役
- 京都大番役
- 鎌倉大番役
それでは1つずつ解説していきます。
戦のときのための軍役
御家人たちは戦が起きた際に、鎌倉幕府のために戦に参加して戦わなければなりません。
源頼朝が存命だった期間に起こった戦は少なかったのですが、頼朝が亡くなったあとは鎌倉幕府による内輪揉めが増え、軍役の機会も増加していきました。
大きい軍役の事例は、承久の乱や文永の役・弘安の役(元寇)が挙げられます。
京都大番役
奉公の主な役割のなかでも、最も大きな役割がこの京都大番役です。
京都大番役は、地方の武士たちが摂関家や皇居、院といった施設の警備をすることです。平安時代では3年の勤務でしたが、鎌倉幕府が成立したあとは幕府固有の制度となり、御家人の役割として定着しました。
さらに、鎌倉幕府の基本法典である御成敗式目が制定されたことにより、御家人の大番役催促、謀反人、殺害人として大犯三箇条として、御家人の役割として明文化されたのです。
また、3年だった勤務期間は後に半年になりましたが、京都大番役は負担が大きかったため、鎌倉時代中頃になるとさらに短縮され3ヶ月の勤務となりました。
鎌倉大番役
そして最後の役割が、「鎌倉大番」とも呼ばれる鎌倉大番役です。
これは、京都大番役の鎌倉版のようなもので、侍所に属し、幕府の護衛をする役割を指しています。
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元寇によって終わりを迎えた御恩と奉公
鎌倉時代中期では、世界に目を向けると飛躍的に勢力を伸ばしていたのがモンゴル帝国です。
中国大陸のみならずヨーロッパの土地までも支配したモンゴル帝国は、当時世界最大・最強の帝国とされていました。さらに、このモンゴル帝国が次に目をつけたのが日本です。
しかし、この頃の日本では源頼朝により成立した鎌倉将軍も3代目将軍である源実朝が亡くなっており、幕府の実権を握っていたのは執権の北条氏でした。
そんな中、日本侵略を考えるモンゴル帝国は、いよいよ大軍を率いて日本に攻め込んできます。
そして、1274年の文永の役、1281年の弘安の役という元寇と呼ばれる2度ものモンゴル帝国の侵略があったものの、御家人の力により打ち勝つことに成功しました。
勝利したものの代償は大きかった
モンゴル帝国に勝利したものの防衛戦争であったため、領土を奪うことはできませんでした。
さらに賠償金を受け取れるわけでもなかったので、元寇によって鎌倉幕府は財政に大きなダメージを受けたのです。
しかし、御恩と奉公のシステムでは、戦った御家人は御恩を受け取れるはずでしたが、財政難によりあまり与えられませんでした。これにより武士が不満を覚え、結果的に御恩と奉公は鎌倉幕府とともに滅亡してしまいます。
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ここまで御恩と奉公のシステムや鎌倉幕府の衰退について見てきました。
源頼朝は血の気の多い武士たちをまとめあげるために、「御恩と奉公」という「ギブ・アンド・テイク」による関係性をつくりあげました。しばらくは正常に機能していたシステムですが、元寇によってこのシステムは崩潰してしまいます。
現代の日本で言うならば、終身雇用制度や年功序列制度などの制度がしばらくは機能していたものの、昨今はこれらの制度が崩潰しつつあることと重なるのではないでしょうか。「御恩と奉公」の衰退は、どのような制度も永遠には続かないということを教えてくれますね。
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